「遊牧」対「農耕」――ノモンハンの背景をかたどる文明の衝突

毎日いろいろなことがあり、真面目に・あるいは面白おかしくまとめておくには時間がとても追い付かない。


この6月に出た田中克彦先生の新書、『ノモンハン戦争』が売れまくっているらしい。田中先生は高名な社会言語学者であり、たとえば平易ながら代表作とされる岩波新書『ことばと国家』は、全国の高校で夏休みの推薦図書に毎年選ばれていそうな定番。また、モンゴル史・モンゴル学の分野でも日本における第一人者でいらっしゃるそうで、たしか9ヶ国語ぐらいを操り(知識ベースであればもっと多くの言語をご存知)、学会ではテーマや参加者の顔ぶれによって、モンゴル語で発表するかロシア語で発表するかを決めるという語学の天才。歯に衣を着せぬ鋭い批評でしばしば会場の空気を凍りつかせるため、敵も多い(たぶん)。ロシア語でソビエト連邦時代の政策批判等をズビズバと行い、ロシアでは反社会的思想の持ち主、要注意人物として大手新聞などで指弾されていると、モンゴル人の研究者のかたから聞いたことがある。かなり恐怖、でもかなり名誉? いや、やはりかなり恐怖。フリチベやっていて日本の公安にマークされるより、はるかに恐怖。

ノモンハン事件といえば、一般に「1939年夏、当時の満洲国とモンゴル人民共和国とが接する国境付近一帯の領土の帰属をめぐって、日本とソ連が約4ヶ月にわたり繰り広げた死闘(日本・満洲国軍VSソ連・モンゴル人民共和国軍)」を指すという。すなわち、日本とソ連が、満洲国軍とモンゴル人民共和国軍というそれぞれの傀儡国家の軍隊を使っておこなった一種の代理戦争、という認識だ。しかしこうした見方には、日ソ両軍に分かれて闘うことを余儀なくされて犠牲を出したモンゴル諸族の人々、もとよりこの地に住んでいたモンゴルの人々の視点が欠落していた。ちなみにノモンハンとは、モンゴル語でノム(法=経典)のハン(王)、チベット仏教僧の位階を示す「法王」を意味する言葉である。

田中先生の新著においては、この大規模な戦闘にいたる一連の国境紛争の背景にあった民族意識のうごめき、ノモンハン事件の戦場となったホロンボイルおよびその周辺地域にまつわるモンゴル諸族の来し方をまず詳述した後に、この戦争の本質を解き明かそうとしている。そのため本書には、戦闘に使われた両軍の戦車がどうの武器の性能がどうの、といった類いの戦争技術論はまったく登場せず、「関東軍兵士はソ連軍の戦車に肉弾戦でよく闘った」といったような精神論も見当たらない。その代わり本書の大部分は、モンゴル諸族がどのような経緯でこの地にいたったか、異なる部族として両陣営に引き裂かれたモンゴル人のリーダーたちが、無益な大規模戦を回避するためにいかに抵抗を試みたか、二つの帝国主義の下でいかにモンゴル独立を夢見ていたかを活写することに費やされている。

おそらくこの、「モンゴル目線」が斬新であるため、本書はさまざまな媒体の書評にとりあげられ、読書家の注目を集めていると思われる。

朝日新聞 柄谷行人氏による書評
読売新聞 松山巖氏による書評
NHK週間ブックレビュー 盛田隆二氏による紹介

衝撃的なのは、ノモンハン戦争そのものにおける死者・行方不明者数よりも、戦闘にいたる前の数年間にソ連政府に「粛清」、または日本参謀/関東軍に処刑されて亡くなっていたモンゴル人のほうがはるかに多く、ノモンハンにおける直接の犠牲者の百倍規模にものぼっていた、という事実だ。

モンゴル人民共和国においては、「……うち続く摘発は、ノモンハン戦争勃発の1939年5月までに、反ソ、反革命、日本の手先との罪状で、2万5828人が有罪とされ、うち2万474人が銃殺、5103人が10年の刑、240人が10年未満の刑、7人が釈放されたという。当時のモンゴルの人口を約70万人と見積もれば、これは恐るべき数字である」

また、今のチベット情勢を知る人々にとって特に興味深いと思われるのは、清朝崩壊後から1920年代以降にかけての漢民族によるモンゴル移住に関する記述が、チベットにおいて現在進行中の遊牧民定住化政策をめぐって漏れ聞こえてくる話と、ある部分で酷似している点であろう。

「遊牧民から見た農耕の漢族に対する、ほとんどトラウマに近い恐怖心は数百年にわたってつちかわれた民族的な伝統になっている」

「……清朝政府は漢族が遊牧地帯に無制限に侵入し、牧草地を耕地に変えて、遊牧民の生活を不可能にしてしまうこの重大な弊害を防ぐための方策をとっていた。しかし一七世紀になると、農耕地帯における人口増のために、耕地を求めてモンゴル人の伝統的な牧地に侵入する農耕民の波はおさえがたいものになっていた。しかも、ねらわれるのは、最も草の成育のいい、遊牧民にとってもかけがえのない牧草地であった」

「……ハルトードさんは私によく言った。田中さん、漢族は武器も何もなくてもモンゴル人を滅ぼすことができます。牧草地を耕地に変えて、そこでどんどん子供を産む。私たちはどこで生きていけますか。解決方法は、モンゴル人民共和国のように、自分の独立国をもつしかないのですと。
 この悪夢は、残念なことに二一世紀に入った今日、現実になってしまった。……私たちは、そのことを、支配する農耕民による遊牧民の排除、抑圧という図式だけではなく、遊牧は死滅すべきかという文明の根本的な問題として、またさらにすすんで、民族の独立の意味という点からも考えなければならない」

満洲国は(結果としては形式上のものに過ぎなかったかもしれないが、少なくとも理念上では)「五族協和」を掲げ、漢族、マンジュ(満洲)族、モンゴル族、日本人、朝鮮人による多民族国家を標榜していた。一方で同じ時代、「帝国」ソ連の力業ですでに成立していたモンゴル人民共和国は、社会主義国家に改変させようというソ連からのさまざま強圧――牧畜の集団化、チベット仏教寺院財産の没収、僧侶の還俗――を受けて、苦しんでいた。そのため、成立当時の満洲国は欧米の研究者達から、その成り行きを、一種理想的な希望をもって見守られていたという。

「(アメリカの地理学者)オーエン・ラティモアが、研究者として生涯にわたって引き受けたのは……農耕という生産形態に追い詰められて、牧地を失い極貧の生活に転落していくモンゴル遊牧民にとってどのような未来があり得るのか――、この問題をラティモアは研究者として終生追い続けたのである。それは文明の問題であるにとどまらず鋭く政治の問題であることが明らかになった」

「満洲国に組み込まれた固有の領域を生活空間とする遊牧モンゴル諸族……が、農耕漢族の侵入による牧地の耕地化、略奪から伝統的生活空間を守るべく、いかにして高度な自治が保証されるかに関心を抱いた」

いかがでしょう。
引用ばかりで申し訳ないので、興味をもたれたかたはぜひご購入ください。
田中克彦 『ノモンハン戦争』 岩波新書
2009年6月19日 第1刷発行で、私の手元にあるのが7月27日でもう5刷です。
紹介されている参考文献は、日本語、モンゴル語、ロシア語、ブリヤート語、ドイツ語、英語……さすがやのぅ。

週末の懇親会。憚りながら、完全にイロモノとして末席を汚す。ついでに「聖地チベット展」周辺を少々、偉い先生がたに宣伝してみたりなんかして(爆)
左から田中先生、中村雅子教授(教育史、マルチカルチュラリズム)、高木教授、モンゴルからの特別研究員ボルギジン・フスレ博士(東大大学院にて博士論文を日本語で執筆!)
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by epea | 2009-09-28 02:57 | チベット・中国関連
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