『修行道の三要素』 (2)

このあたりから、よくわからない個所が出てきました。多くの語彙の背後に前提とされている知識や含意が感じられ、訳のスピードも早くなるため、意味を伴って言葉を聞き取ることがなかなか難しい。特に「アサンガによる三条件」と訳されていた因の条件とは何を指すのか? 唯識の分野で定着している用語遣いがあるのでしょうか。講演で聞いた範囲の言葉でネットで調べてみましたが、わかりません。詳しいかた、ツッコミ解説をお願いします。

「自我をめぐる3つの問い」は、法王が方々の講演で、仏教哲学と他の宗教の根本的な違いを説明する際によく引き合いに出しておられるように思います。


*****(続き)****************
■次に宗教的な見地から、「いかに他者への愛をはぐくむか」について考察する。
ここで、自己愛/他者への愛について問題にしているが、自分と他人を区別しているものは何か。そもそも、自分とは? 

■自我をめぐる3つの問い:
1. 自我とは?
2. 自我に始まりはあるか?
3. 自我に終わりはあるか?


■1. 自我について
一般に「私」を指さす時、私の何を指しているのか? 自分の心臓?頭?あるいは心?
「心」を指すとしても様々なレベルがある(粗、微細、etc.)。どのレベルの心を指しているのか、実はわかっていないのではないか。

答(1) 「自我とは自分の心と体を支配する所有者を指す」とする: キリスト教など一神教
  例: アートマン(インド哲学)、soul/魂 (英語圏、キリスト教)の概念
  (仏教用語でいう)五蘊の所有者を、永遠の自性を持つものとして捉えている。

答(2) 「五蘊である自我は存在しない」とする: 仏教
  心と体の構成要素である蘊により、存在しているように見えるだけ。
  般若心経の一節「五蘊皆空」=五蘊自体も自性を欠いた空であり、したがって五蘊により構成されている自我もまた空である。


■2. 自我に始まりはあるのか?

答(1) 神の存在を受け入れる宗教
  人間は神(創造主)が作ったものであるので、始まりがある、と捉える。
  ただし、インド哲学サーンキャ派の「根本物質」の二十五項目に自我を含んでいたかどうかは不明。
〔epea注・ 「二十五の原理」「二十五諦」と呼ばれる成り立ちにおいて、純粋な精神的原理としてのアートマンに対する他の物質的原理「根本原質」から変化(開展)を起こした結果、自我意識を生じる、と説明されているようです。〕

答(2) 神の存在を受け入れない宗教
  人間の身体においても精神においても、(一般に)始まりはない、とする。
  肉体は誕生した時に始まっているように思われるが、しかしその構成要素を突き詰めて分析すると、(粗なレベル・微細レベルの)微粒子に還元される。微粒子も因果の連続体であることを考えると、〔物質的な存在である〕身体については、始まりを決定できないことになる。
  また、自我を肉体そのものではなく意識の連続体として捉える時、そこには実質因とそれを支える二次的な因が存在することに気づく。ある意識には、それに至る前の存在たる意識が前提となっており、さらにその前の意識が存在し……という連続性を見ていくと、〔精神的な存在である〕意識についても、始まりを決定できないことになる。

 (参考) アサンガによる〔意識の存するための?〕三条件
1. 無常  2. 不能なること(??よく聞こえなかった)  3. 可能性の力
一つの意識が存在するには、それに至らしめた実質因が存在している必要がある。また、同種の因を結果として生み出せる可能性を備えていなければならない。


■3. 自我に終わりはあるのか?

答(1) 神の存在を受け入れる宗教
  「魂があり、死後は神による審判を受けて天国か地獄へ行く」
   → 自我に終わりがある、としている。

答(2) 神の存在を受け入れない宗教
  仏教における二種類の考え方:
  ‐「涅槃に至った時、五蘊の連続体が途切れて涅槃に入る」: 説一切有部
  -「涅槃に至った時、五蘊の連続体とは関わりなく涅槃に入る」: 仏教一般
   → (涅槃に入ると五蘊は消えるが)自我に終わりはない、としている。


(続く)
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by epea | 2009-11-02 01:05 | 仏教関連
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