『三月の風』 (1)

今年は、チベットで大規模な蜂起が広がり、またダライ・ラマ法王がインドへ逃れた1959年3月からちょうど50年目、ということで、注目が集まっています。

ただし、ジャムヤン・ノルブ氏によると、カム地方では3年前の1956年の時点ですでに一連の大規模な蜂起が起きていて、それが1959年にいたる抵抗運動として連なっているそうです。ジャムヤン氏は、これをGreat Khampa Uprising(カンパ大蜂起)と呼び、ご自身の記事でこれまでも度々、言及してきています。

今月上旬に掲載されたエッセイでは、この抵抗運動について、冒頭部分で同じく1956年に起きて世界の耳目を集めたハンガリー革命(ソビエト連邦による占領に対する抵抗運動)と対比させてから、カム蜂起の英雄たちのエピソードを紹介しています。○○英雄伝という感じでなかなか面白いので、こちらでも少しずつ翻訳してみたいと思います。
(例によってけっこう長い記事なので、少しずつゆっくり、やらせていただきます・笑)


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March 6th, 2009
MARCH WINDS by Jamyang Norbu


REMEMBERING THE GREAT UPRISING OF ‘56 AND ‘59

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2006年には、ソ連による占領に抵抗するハンガリー革命50周年記念ということで、ハンガリーでは国中をあげて記念式典などが執り行われたが、首都ブタペストでは反政府抗議活動によって幾分か損なわれていたようだ。いずれにせよ世界中のマスメディアがこの50周年記念を報道し、1956年のハンガリー革命に関してこぞってとりあげた。
(訳注・写真は、「1956年・今年の人」としてハンガリー革命における自由の闘士達をとりあげたTIME誌の表紙)

同じ年、東チベットでははるかに大規模で流血の犠牲の多い蜂起が、全体主義的で巨大な共産党集団、Red Chinaに対して繰り広げられていた。だがこちらの50周年に関しては、残念ながら世界から見過ごされてしまっていたが、ダライ・ラマ法王や亡命政府もあえて取り上げない姿勢だったことを考慮すれば、これは無理もないことだった。


ギャトツァン・ワンドゥ Gyatotsang Wangdu
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ハンガリー革命は19日間続いた。自由を求める2500人の闘士が殺され、約13000人が負傷した。一方、カム地方の蜂起は1956年2月に始まり、少なくともチベット域内では1962年まで続いた。収束したといえるのは、1974年8月、抵抗運動最後のリーダーだったギャトツァン・ワンドゥがネパール前線のムスタンにあったゲリラ基地で奇襲に遭い、殺された時だったといえる。この闘い全体において何人が亡くなったのか、正確にわかっている者は誰もいない。控え目に見積もっても、チベット側だけで50万人は下らないと思われる。こうした事実や数字は、ハンガリーで起きたことと比較するために引き合いに出されることもなかった。なぜなら統計だけでは、ハンガリーにおいてもチベットにおいても、自由を求めて闘った者たちの実際に持ち併せていた勇気や犠牲を測り知ることはできないからだ。ここでとりあげたいのはむしろ、チベット革命が当初から奇妙にも無視され続けてきたこと、特にチベットの闘いによってもっとも恩恵を受けた人々からも見過ごされてきたことである。

カムすなわち東チベットの人々は、共産党当局が「民主的改革」――僧院や部族の指導者達を排除し、伝統的な社会制度を撲滅させてしまうプログラムを導入し始めた時に、中国による占領に対抗して立ち上がった。このプログラムは、タムジンと呼ばれた闘争、公衆の面前での屈辱、殴打、拷問、強制告白、投獄、そしてしばしば処刑も含んでいた。自殺は、「民主的改革」が宣言された地域において広まった。


ユンル・ポン・ソナム・ワンギャル Yunru Pon Sonam Wangyal
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亡命のフォークロアにおける原型的な起源ともいえる事柄の数々については、1956年のリタンでの蜂起がその源として取り上げられることが多かったといえる。私自身も『ユンル(YUNRU)』という劇を作ることで(1981年チベット舞台芸術院・TIPAで初上演)、この流れに少しばかり貢献してきた。

リタン抵抗運動の最高指導者だったユンル・ポンは、非常に若くて謎めいた人格だったというだけでなく、その戦死は英雄伝記映画の恰好の題材になるたぐいのものだ。彼と他のリタンワ族長達や戦士達は、度重なる中国歩兵部隊の攻撃、迫撃砲による爆撃、成都にある基地から飛来する航空機からの爆撃などから、偉大なるリタン僧院(ダライ・ラマ3世が建立)を守り抜いた。弾薬が尽きた時、ユンル・ポンは降伏したと見せかけて中国の司令官に近づき、隠し持った銃で彼を撃ち殺した……最も劇的に、中国兵達によって射殺される前に。一人の証人、ロト・プンツォクは、1959年の国際法律家委員会において、500人の中国人兵士がユンル・ポンに向けて銃撃した、と証言している。

それより以前、1952/54年東チベットのギャルタン(リタンの南)では、ワンチュク・テンパまたの名をアク・レマーに率いられて、暴力的な反乱が引き起こされた。また北東チベット(アムド)のホルムカとナングラでは、ポン・チョヘとポン・ワンチェンによる反乱がおきている。アムドでの闘いを生き延びた証人リンジンによると、「あまりに多くの人々が殺され、自殺し、大勢がラサへと逃げ去ったため、後に残っていたのは少数の盲目や不具の人々、愚か者や子供たちだけだった」

しかしながら、1956年のカンパ蜂起こそが私達の偉大な国家レベルでの革命の始まりとして捉えられるべきと考える。なぜなら、それらは孤立した出来事ではなく、多くの地方・地域や部族を巻き込んだ動きだったからだ。驚くべきことに、一連の蜂起はきわめて広範に連携していた。ある情報筋によれば、リタン、チャトレン、バタン、リンカシ、ニャロン、ギャルタン、ギャロン、ホルコ、ガバ、その他の地域の間で、お互いに連絡を取り合い、蜂起のための共通の日を取り決めたという。それは、1956年のチベット暦新年から18日目に設定された。

(to be continued...)
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by epea | 2009-03-19 07:52 | Jamyang Norbu
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